命をいただく /沢ガニの命をいただく

今日の夕方のこと。
近所の魚屋「魚重」に行ったら、沢ガニが売っていました。10匹くらい透明パックに入って200円。すごく元気でガサゴソ動いています。
魚重のご主人は自分で釣った魚を店頭に並べることがあるので、
「獲ってきたんですか?」と尋ねたら「いや、市場で仕入れてきた。今、旬なんですよ。唐揚げにして食べると美味しいよー」とのこと。
閉店までそう時間がないのに、店頭にはまだ10パック以上残っています。
「売れ残ったら、逃がしますわー」とご主人が言うので、
しばらく悩んだあげく、1パック購入してみることにしました。


帰宅するなり息子コウヘイに「見て見てー」
「うわっ、これどうするの?」
「食べるんだよ。唐揚げで。」
「えぇーー!?」
台所に移動し、ボウルに移そうとしたら、それまでよりも一層元気に動き出し、逃げ出そうとする沢ガニたち。
やっとでボウルに移し、水を浸したらおとなしくなったので「水が欲しかったのかなぁ?」としばらく眺めていましたが、
ザルに移したとたん、10匹一斉にザルの目をつたって逃げ出しました。
捕まえようとすると手をはさまれ、「イテテイテテ」と、やっとのことでボウルに戻しました。
もうこの時点で、この沢ガニ君たちは、「食料」ではなく「生き物」。
一緒に購入した「鯵」よりも、ペットとして飼っているウサギの「チャコ」に近い存在になっています。
なんだか食べるのが気の毒に思えてしまい、
「このまま虫かごで飼おうか。
それとも、外に逃がそうか。」
でもここで虫かごで育てられても、街中に逃がされても、それも人間のエゴ。
食べられるために捕らえられた沢ガニ。
食べることだけが、彼らに対しての礼儀なんじゃないかと思えてきて、心を抑え、予定どおり唐揚げにすることにしました。
片栗粉をまぶすと、動きは一層激しくなりましたが、
箸でつかみ、熱した油に落とすと
….その動きは一瞬で止まりました。
手と手を合わせました。
「食べる」ということは、こういうことなんだな。。と思いました。
釣った魚を捌いたことはありますし、常に肉や魚・野菜を食べているわけですが、今日ほど「命をいただいているんだ」ということを、痛烈に感じたことはありませんでした。
沢ガニを調理し慣れないからか、それとも、あまりにも元気すぎる彼らの動きに、
その生命力を見せつけられたからでしょうか。
たぶん沢ガニを買うことも飼うことも、もう二度とないと思ったので、
コウヘイに「見ろ!」と言いましたが、
彼は頭に座布団をかぶり
「すまん。臆病だとでも、小心者だとでも、何とでも言ってくれー」と叫び、厨房に来ませんでした。
食事の支度が整い、食卓には、鯵の塩焼きや、唐揚げになった沢ガニが並びました。
コウヘイは、いつもより小さい声で「いただきます」と、手と手を合わせました。
それを見て、心がジンとしました。
ふと、「”殺生”って、食べる人かな?獲る人かな?調理する人かな?」と考えましたが、
「両方だ」と思いました。
「関わる人すべてだ」と思いました。
今さらですが、私は産まれて以来、数えきれないくらいの殺生をして、この命をつないできたんですね。
気持ちとしては、感謝というより懺悔です。でもそれが宿命とするなら、ただただ感謝するしかありません。
「手を合わせる」って、そういうことですね。
今さらです。今さらです。
頭では分かっていたのですが、心では、全然分かっていませんでした。
今思えば、あの口蹄疫の時ですら、全然分かっていませんでした。
コウヘイは「美味しいけど、、、複雑な気持ち」と、僅か10匹の沢ガニでしたが、結局家族でも全部食べることはできませんでした。
残った沢ガニは、明日、一匹たりとも残さずに、いただきます。


まど・みちおさんが好物の「タタミイワシ」を食べながらお話しされていた時の「言葉」 を思い出したので、記します。
イワシを小さくした これ
イワシの何千何万匹か
これ 卵じゃなく
その子どもですね
私は残酷な男ですよ
いい年してねぇ
残酷の限りを尽くして
そのことによって
こんなに 100歳にも
寿命を延ばしているんですよ


「さかな」 まど・みちお
さかなやさんが 
さかなを うっているのを
さかなは しらない
にんげんが みんな
さかなを たべているのを
さかなは しらない
うみの さかなも
かわの さかなも
みんな しらない

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